日比野克彦の野田鶴声社訪問記
 亀有から、2002年ワールドカップの笛が鳴り響く
 

その日はちょっとご機嫌だった。金色に輝くホイッスルが首からぶら下がってるから、ただそれだけでちょっと僕はご機嫌だった。野田鶴声社を出て、道に迷いながら亀有駅にたどり着き、常磐線下りに乗って30分、取手駅で下車し東京芸大(上野校地と取手校地がある)に向かう。研究室に着くとまだ13人いる日比野ゼミの学生は全員集まってはいなかった。一人が遅れて部屋に入ってきた。「ピッ−ッピー--!!」甲高い笛の音が部屋に響く、ガラス張りの部屋から廊下の向こうの部屋も見えるのだが、そこにいた2年生もこちらを振り向く。「快感!」。これぞホイッスルの成せる技。日ごろ大学では聞かない音色に校舎の中にいた者が皆「何事か!?」と、緊張感が走る。そんないたずらをしでかしながら、「何ですか、それ?」と、聞いてきた学生らにホイッスル自慢をする。「世界が認めた下町の音、野田鶴声社製のホイッスルは世界一!そのうえ、これは2002年ワールドカップ仕様の限定版のエディション入り!野田員弘社長直々に頂いた代物であるのだ!」。それに対する反応は2種類、「すげー!知ってる、その笛、岡田(正義)国際審判が吹いたやつでしょ」というのと、「ふーーん、で?」というのと真っ二つ。たかがホイッスルされどホイッスルである。
 それから数日、僕はホイッスルを持ち歩いている。何かのときに使えそうな気がして、毎朝、財布、カード入れ、携帯電話、携帯灰皿、そしてホイッスルと、持ち物の定番がひとつ増えた。「おもちゃをもった子どもの興奮」と「宝物を持った大人の幸福」と「武器を持った人間の野心」とが入り混じる不思議な金色のホイッスル。しばらくは離せそうもない。音といい形といい、そしてこのホイッスルの背景といい・・・。いいものを亀有で手に入れたと僕はちょっとご機嫌である。初めて亀有という駅に降りて、公園前の交番を見つけて「やっぱりあるんだ」と、どうでもいい印象で始まったその亀有は、その2時間後には、世界の亀有に急上昇していた。野田さんは話しまくっていた。昔のことを昨日のように、僕の父と全く同じ年の71歳午年の野田さんは江戸っ子の喋り口調でまくし立てた。上野の東京芸大に隣接する上野高校出身だと聞くとますます親近感が湧いて、その話に巻き込まれていった。このあと取手で授業があるので、と切り出す間がないほど、とぎれなく話が続いた。その話とはこんな話。
野田「おっ!!あんたが日比野さん?あれっーーーー?昨日テレビに出てなかった?NHKのサンデースポーツ、岡ちゃん(元日本代表監督の岡田武史)と一緒に、ねー」
日比野「・・・・・・、あっ、はい」
野田「まぁー座って」
5メートル幅の道路に面した会社はドアを開けると、3坪ほどの事務所兼応接室があり、右手に机がひとつ、左手に二人がけのソファーが低いテーブルを挟んで一組ある。私と編集者とカメラマンの3人が入ると、そこはもう一杯になった。通常このような状態になると・・・、
(架空)野田「すいませんね、狭いところで、大丈夫ですか?」
 と、なるのだろうが・・・。すでに野田さんは低いテーブルの上に置かれてある、いろいろな種類のホイッスルに目をやり、僕が編集者に続いてカメラマンも中に入れたろうか?と後ろを振り向きつつ、腰をソファーに下ろそうとしたその時・・・
野田「あのね、日比野さん、このホイッスルがね・・・」

 こんな話はこんな調子で始まった。野田さんに会ってから60秒と経たないうちに僕は完璧に野田さんのペースに占領されてしまった。さぁー、はじまりますよ!いましばらく野田さんの集中砲火をご堪能くださいませーーーー!
野田「あのね、日比野さん、このホイッスルがね、一番最初に作ったやつなんだけどさぁー、これができるまでにはいろいろあったわけよ。時は1919年、大正8年、私の親父がね鴬声社(おうせいしゃ)っていうハーモニカ工場で工場長やっててね、全盛期には100人くらいの女工さんや職人さんがいたかなぁー。そのころには台東区の龍泉寺に4つ工場があってねぇー、そんなときにさぁー、鴬声社の社長のところにアメリカのバイヤーがひょこり現れたんだ。第一次世界大戦後の物資の不足で、アメリカがハーモニカを生産することが難しくなってきて、日本にその代わりを求めてきたってわけだ!しかし、社長はこの話を断ってしまったんだなぁー、これが。ハーモニカ工場にハーモニカ作ってくれって言われてさぁー、断っちまうんだよ、えっー、どうよ?どう思う、この社長のこと、もったない話だよなぁー。でもね、これが野田鶴声社ができるきっかけになっていくんだから、わかんないね人生って。鶯が鶴に変身する瞬間ってことだなぁー、このときが!ホーホケキョッと鶴の一声!よっ!もう一声!」

 あのー野田さん、すいません、日比野がちょっと演出してる部分があります。歴史的事実は正しいのですが、野田さんの喋り言葉、言い回し、語尾、江戸弁のあたりはかなり怪しくなっております。昨日、僕はチュニジアからモスクワ経由で22時間かけて帰ってきたのですが、ワールドカップがいよいよ近づいてきて、日本が戦うH組の各国の現状なども調査にでかけたりして、ロシア語、オランダ語、フラマン語、フランス語、アラビア語とさまざまな言葉が飛び交い、岐阜出身の日比野としましては、ますます怪しい表記になっておりますし、ワールドカップ直前の昂揚感も重なりまして、ちょっと荒っぽい原稿かなぁーと思いながらも書いてますが、ご了承くださいませ・・・。野田さんの言葉に基づいた日比野の野田さん像ということで続き。

野田「何故、断ったか?これがまぁー泣ける話っちゅうか、当時の風潮っていうかねぇー。そのころ、鶯声社はねぇー、ドイツのフォーナーのハーモニカを分解・改良してさぁー、日本国内向けに作ってたんだなぁー。で、外国向けには作れねぇーって、まぁー男の意地なのか、何なのか知らねーけど・・・。でもさぁー、アメリカのバイヤーは、ハイそうですか、って手ぶらじゃ帰れないからね。そんなことしたら、何しに日本までやってきたんだ、ってっことになっちまう。で、うちの親父に話をこっそりもってきたわけよ。『いずれ野田さんも独立するんでしょう。独立すれば親方と競争するでしょう。競争するんだったらいっそのこと、今、独立してアメリカに輸出するハーモニカを作らないか』って。やるよねー、アメリカさんも。でもそれ以上にやっちゃったのは、うちの親父だよね。『やっちゃうか!』ってなもんで、さっさと工場長辞めちまって、自分の会社をつくっちまったんだからねぇー」

 野田さんと同じ年の僕の親父、の親父は神戸で絹の輸出業で日比野商店っていうのをやっていたんですが、その祖父の詳しい話はあまり聞いたことがない。うちの親父に今度会ったときには聞き出そうと思うのですが、野田さんほど喋りがうまくないので、酒でも飲みながら、しかし呑み助なので飲んじゃうと話が飛んじゃうので・・・、結局聞き出せないで終わりそうかも。
野田「鶴声社がホイッスルを最初に作ったのはねぇ、今から34年前の1968年のあの出来事から。当時、春と秋に、全米の雑貨、おもちゃのバイヤーが日本に買い付けにきていて、蔵前から浅草まで商社が40軒くらいあったなぁー。電話一本、タイプライターひとつあれば商売ができちゃうんだから、輸出っていうのはねぇー、のんきな商売だよ。そんなのんきなところで、うちがハーモニカの取引している商社でニューヨークのバイヤーが騒いでいるわけ、まだ笛の買い付けができないって。困っていたから、『じゃあ、俺やってやろうか』って言っちゃたのよね、気楽に。ハーモニカーを作る技術をもってすればさぁー、ホイッスルくらいなんて簡単に作れるだろうと思ったの。ハーモニカは音程が必要だけれど、ホイッスルはピーというひとつの音しか必要ないんだもの。先方もお前のところ鳴り物屋だから何でもできるだろうと。そして見本のイギリス製の笛を差し出して、明日、ニューヨークに帰るから昼までに見積もりしてくれと。それで、当時のヒルトンホテルに見積もりを持っていきましたよ。こうなったら、基準はもう、目方だわな。行程で何行程かかるかわからねぇーもんな」
 この後、話は商談の苦労話、香港でのコピーものが出回ってる話、ワールドカップでの人気の話など、とめどなく続いた。話が一度中断したのは、事務所の電話が鳴った時。事務所には誰もいないので野田さんが出るのかな?と思いきや、ベルが鳴っていても、一向におかまいなしに話をしている。それよりベルの音に負けずと声を張り上げ一層話は盛り上がる。そして録音テープは回り続け、針は振り切れる。電話をかけてる相手がしびれを切らしてそろそろ切るかなというころに、「ガラガラッ」と奥のガラス戸が開いた。社長夫人が受話器を取った。野田さんは背中越しの一連の出来事を察しているのか、なんの反応も見せずに話をしている。このような状況がこの会社においては日常なのだろうということは充分想像できる。また、ベルの音に反応しない野田さんに戸惑う幾人もの客人が、過去に何人もいたことも充分想像できる。社長夫人に促されていやいや電話に出たこの時だけ、話が中断した。編集者が用意した録音テープはとうになくなっていた。
 表の看板のところでカメラマンが取材用の写真を撮ってると、NHKのラジオ中継車が現れた。「取材ですか?」と聞くと「はい、これから」と、車の中にいるアナウンサーらしき女性が答えた。その様子に野田さんが出てきた。部屋の中で一度「失礼します、ありがとうございました」と挨拶したのに再びご対面。じゃあ一緒に写真撮りましょうと記念撮影。「ほんとありがとうございました」と挨拶をして、カメラマンと編集者を残して取手に急いだ。どたばたで野田鶴声社を後にする。方向を確かめずに走り出してしまって、駅への道が一瞬わからなくなる。立ち止まって来た道を振り向く。すると野田さんはNHKの人たちを「どうぞどうぞ」と招き入れていた。鶴声はますます冴え渡る。「ピッ----ーーーー!」

都市出版「東京人」7月号(2002年6月3日発売)より転載