図工の時間
 

先日「トントンギコギコ図工の時間」という映画を見ました。気に入ったらコメントを書いてくれという依頼でした。日頃から「小学校で教科が分かれているから図工を嫌いになる子がいる」と言ってきた私にしてみれば「図工の時間を奨励する映画だったら引き受けにくいなぁー」と思いながらも、とりあえず見てみることにしました。アトリエで仕事をしながらBGV的に流していると、たまたま来ていた芸大の学生がすっかりその映像に見入って、「好きだなァーこんな世界」とぽつりと呟いていました。この学生は大学院の1年生ですが、1年休学して私は何を作ればよいのか?私は何を求めているのか?私はどうして作品を制作するのか?など根本的なことを改めて考え直したいと悩んでいました。この映画の何にこの学生は共感を抱いたのか。それは決して図工の時間に制作した「もの」ではなく、図工の時間に流れている「イメージ」の世界を見せられたからなのです。
映画の中に流れているのは子供たちの日常生活です。図工室での制作時間よりも、その子供が図工室に何を持ち込んできているのかという姿です。兄弟が何人いるか?昨日何して遊んだか?今お腹が減っているか?こんな日常のことはクラスの全員が違っています。しかし算数では兄弟がいる子もいない子も1+1=2です。国語では春に勉強しても冬に勉強しても漢字の形は変わりません。でも図工は、海で泳いだ後と前とでは描く世界が違ってくるのです。
 図工の時間は図工の時間だけでは始まらないし終わりません。図工室での出来事は個人個人の日常の延長線上にあるのです。芸大の学生はいつのまにかそれを忘れかけていました。知識を詰め込み、技術を獲得し、情報を分析しているうちの自分の日常を見失ってしまったのです。図工の時間を嫌いになる理由は、2つあります。1つは日常を持ち込めないから、1つは持ち込む日常がないから。前者の理由に関しては図工の先生の工夫で解決できるでしょう。後者の理由に関しては図工だけの問題ではありません。教育全体の問題になってきます。しかしこの問題を解決できる教科は図工だけかもしれません。日常を見失っているだけであって、日常がないことはありえないのです。日常を持つことに意味を見出せなくなっているだけなのです。だからまずは最初に図工の時間のために日常を見る目を持とうとする。その成果を発表できる場を提供することによって自分の日常の当たり前の存在に価値が見出せるのです。
 図工の教科は図工の時間だけではできません。そういう意味で、図工の時間だけ図工をやればよいと子供たちに思われるのが、一番避けなくてはならないことだと考えます。総合教育という言い方もこの場合には適していないでしょう。私は何を作ればよいのか?私は何を求めているのか?私はどうして作品を制作するのか?ということを改めて図工の時間に考えるのではなく、日常の中でイメージを獲得していれば、つくりたいものがある、求めているものがある、制作する理由があるのです。大人になってどんな仕事、生活をしても、日常の延長線上で表現をする、小学校の図工の時間は一生続いていくのです。

「教室の窓」小学校図画工作 平成17年度用教科書特集号 より転載
(平成16年5月発行 発行元:東京書籍株式会社)